相澤 直哉 & PIAGGIO Vespa 150VB1(2019.07.20/SENDAI) |

中2の春、一番町(仙台市内の中心部)の歩行者天国で、
リーゼントの集団がイベントをやっているのを目撃しました。
ラジカセでロックンロールを流しながら
ツイストを踊る彼らのかたわらには
色とりどりの古ぼけたスクーターが並んでいた。
それがベスパを初めて目撃した日です。
でもその時は「随分古臭いデザインの
変なスクーターだなあ……」しか思わなかった。
それからしばらく経って、学校の近所にカフェがオープン。
入口に、あの日見た古臭いスクーターがディスプレイされていた。
それを毎日眺めるうちに……
古臭い→ 味がある→ カッコ可愛い→ 俺も乗りたい!
……と気持ちが変わっていきました。
高校生になり、こっそり免許を取った同級生がジョグだタクトだと騒ぐ中、
僕はベスパを買うために人生初のアルバイトをし、
稼いだバイト代で中古の50Sを購入。
ネットもなく、またベスパ50Sが一旦生産を終了した時期だったので、
車両を探すのはとても苦労しました。
バイク雑誌をめくり全国のバイク屋に電話をかけまくり、
ようやく東京の(株)ベスパでペパーミントグリーンの50Sを見つけ、
状態も見ずに勢いで購入。以来35年間、
ベスパ一筋のバイク人生を歩んでいます。
1980年代初めの仙台はモッズカルチャーが皆無で、
ベスパはロックンローラーが乗り回すアイテムでした。
先輩方がリーゼントにロールアップしたジーンズでベスパを乗り回す姿は、
族車を乗り回すヤンキーの先輩と違い、
『アメリカン・グラフィティ』のイメージそのもので
とにかくオシャレでクールだった。
当時仙台にあったベスパチームの中で僕が憧れていたのはBILLY'S。
BILLY'Sの先輩方の多くは現在もベスパやラビットに乗っており、
今も変わらず憧れの存在です。
僕はベスパがきっかけで古いデザインやファッション、
そして音楽に興味を持つようになり、
20代はオールディーズ系のライブハウスKENTO'Sで
日夜ロックンロールを歌う青春を過ごし、妻と出会い、2人の娘に恵まれた。
僕自身も仕事の傍らバンド活動を続けている。
今の人生は、全てベスパが導いてくれたと思っています。


僕が初めてベスパの魅力に目覚めたのは前述の通り
カフェにディスプレイされていた50Sなんですが、
それはワインレッドのボディカラーにサドルシートのベスパでした。
以来、「ベスパ=サドルシート」のスタイルが一番カッコいいと思っています。
その視点でヴィンテージベスパを選択すると、8インチSTD系の車両に限られる。
洋書のベスパ本でVB1の存在を知り、
「これだっ!」と思ったんですが、
VB1は生産期間が実質一年ちょっとなので
当時行きつけだったベスパ屋からも
国内で手に入れるのは無理と言われていました。
で、しばらくはVBB~VBAに乗ってましたが、
数年後フルオリジナルのVB1がオークションに出たのを見つけ、
気合いで手に入れました。
VB1はマニアックな車両ですが、ベスパ伝統の8インチ、3速、
ピストンバルブの最終モデル。ベスパの父、
コラディーノ・ダスカニオが設計したベスパ本来の完成形だと思う。
ボディはオリジナル塗装なのでヤレヤレですが、
いずれレストアすっかな?と思いつつ経年劣化を楽しんでいます。
エンジンはこれまでに2回OH。ピストンはオリジナルの57mm。
今も公式データ以上のスピードが出る。
実在するミレニアムファルコンと呼んでください。
グラマラスなスタイルとスパルタンな走りに
心底惚れ込んでおり、生涯手放しません。
くたばったら一緒に埋めてもらいたい。
このベスパでゴートゥヘブン目指します。


今から35年前、無性に海が見たくなり、
ベスパに乗って東に向かった。
僕は16歳。街中から海までの道のりは、ちょっとした大冒険。
ポケットには数枚の100円玉と方位磁石。それを頼りに、とにかく東へ、東へ。
街を抜けバイパスを抜け、工業地帯を抜け……
そして松林を過ぎると、大きな大きな青い海が広がっていた。
生まれて初めて、自分一人でやって来た海。
海岸沿いにベスパを停め、波しぶきをただずっと眺めた。
あの日の感動は今もハッキリと胸に残っています。
20代後半から30代前半までの数年間、
仕事と子育てに追われベスパから離れていたが、
ネットの発達で、
10代の頃には写真でしか見られなかった大昔のベスパが
容易に入手出来ることを知り、ベスパ熱が再燃。
どうせなら少年時代に憧れだった
ヴィンテージベスパを手に入れて娘とタンデムしたい!
そう思い立ち、64年式の150VBBを皮切りに59年式の150VBAから
現在の愛車へと乗り継いできました。
年頃だった長女は一度乗せたきりだけど、
まだ幼かった次女はベスパが大好きになり、
休みの度にタンデムをして山へ海へと走り回った。
その次女も東京へ巣立った今、
あの頃ふたりで走り回った日々が、僕のベスパ人生で一番幸せな時間でした。
仙台は全国的に見ても50’S~60’Sの
ヴィンテージベスパを愛するオーナーがとても多く、
所属するベスパクラブ宮城(VCM)を通じベスパ愛に溢れる
メンバーと出会えたのはかけがえのない財産です。
一人で走っていた頃、川崎町から秋保に抜けるルートの丘の上に、
まるでイタリアの田舎道のような牧歌的な風景を見つけました。
クラブに入ってからはメンバーを誘い、何度もその場所を訪れ、
勝手に「宮城のミラノ」と命名しVCMの聖地にしました。
ま、ただの農道なんですが。
2008年にベスパミーティングジャパンを宮城で開催した際、
その聖地を目指して38台でランしました。
はじめは一人で走っていた道を38台のベスパが列をなして
走っている光景を見た時は、まさにサイコーっ!って気分でした。
他にもこれまでに多くのイベントを行ってきましたが、
今後もVCMならではのイベントを企画しみんなで楽しんでいきたいと思っています。
YouTubeにアップしたイベント動画がキッカケで
フィレンツェのイタリア人と親友になりました。
彼と出会って以降、日本では到底入手出来ないレアパーツを手配してくれたり、
本当に助けられています。
彼は2009年と2012年の2回仙台を訪れていますが、
2度目の来日の際は震災後だったので
全国のスクーター仲間の支援を元に、VCMメンバーと真夏の仮設住宅へ向かい、
皆でイタリアンジェラートを振舞いました。
敷地内でベスパの試乗会を開催し、子供たちを後ろに乗せて走りました。
あの日仮設で出会った子供たちが見せてくれた笑顔は
一生忘れることはないでしょう。
