小説『バイクのある風景』柴田 圭 |
都会の風邪にやられたんだ。
そう自分に言い聞かせ、残った全部を青く浮き出た血管に打ち込んだ。
「あっ……」隣にいた女がぼくの腕を見て声をあげた。
身体の震えは止まった。骨の痛みもうやむやになってゆく。死んだように身体はぐったり動かなくなった。全部、そう全部、遠くなってゆく、もうこれで終わりだ。
肌を突き刺すような悪寒で自分がまだ存在していることに気がついた。
身体がベタつき、埃がまとわりついている。
薄っぺらいUSブランケットに包まっていて、女はゲロだけ部屋に残して消えていた。
窓の外には青白い世界が広がっていて、まだ現実味を帯びていない。
雨が降ってきた。
昨日も降っていただろうか、あぁ、降っていただろう。
頭はまだどこか霧がかったような欠落した不快感に覆われていて、訳の分からない悔しさが、ねっとりと残留している。
無意味に咳き込み、息苦しくなる。
あまりにも勢いよく咳き込んだせいでベッドから落ち。まともな受け身も出来ず、思ったよりも強く身体を打ちつけ床でもがき苦しんだ。
呼吸を整え、痛みが引いた時、ふと顔を上げると目の前に姿見の鏡があり、無駄に汗ばんだ自分の顔がその中に張り付いていた。
いつの頃かこの町に憧れ、気がつくと憧れの町に根を下ろし、あっという間にこんな成りになっていて、まともな仲間はみんな離れていった。
残ったのは口とケツの穴が入れ替わったような連中だけだった。
どうしてこうなったのか、誰がこんなのにしたのか、気がついたら自分も口とケツの穴が入れ替わってしまったのかもしれない。すべてがはっきりしない。
立ち上がろうとしたら、床に転がっていた空のアンプルを足で踏んだ。
何も感じない。ただボーっとしているだけ。
雨の音が聞こえて、血が流れている。
他には何かあるだろうか……何もないだろう。
窓の外を見て、瞼を閉じた。
薄ら明るい。主張しない光り。
手が震えた。ひょっとしたらどこか痛いのかもしれない。
痛みがひどくなる前に部屋を出た。
雨脚は弱くなった気がする。
錆の浮いた退屈な螺旋階段を下り、ブロック塀の片隅に足を向ける。
ダブダブになった幌に手をかけた。
そして、その向こうにある塊の輪郭を手で探る。
改めて確認する必要なんてないのに、いつもこうやって同じことを繰り返す。
ズルズルと幌を引っ張ると、溜まった雨水が音を立てて流れ、足元が濡れた。
タンクには勝利と描かれていたかもしれない。
それともKAWASAKIとただ描かれていたかもしれない。
あるいはHONDAだったかもしれない。
なんにしても古いバイクだ。
大きなキックペダルがついていて、季節問わずいつだろうがエンジンのかかりは悪く。
冬場なんかはエンジンよりも先に自分の方が温まってしまうほど調子の悪いバイクだった。
それが、アパートの真ん前でキックペダルを踏み下ろすと、驚くこと見事に一発で始動した。
この梅雨冷めのなか、あり得ないと思いながらスロットルを少し開けて回転数を上げる。
本当ならばアパートの前では駄目なのだが、さらにスロットルを開け、アパートを見て、辺りを見回した。
ごみごみとした灰色の雑多、その中に自分がいて、自分の部屋がある。
早朝、辺りの空気にはバイクのエンジン音以外に雑音が入り混じり消えようとしない。
その音に目を瞑り、耳をすませ消し去ろうとしたがそれは難聴のように頭の中に染みついていた。
耳から離れないリズムを孕みながらどこかを走っていた。
辺りは暗く、世界が狭く感じる。
前へ進んでいるというより墜ちていくような感覚だった。
墜ちているとするなら、這いあがれないような深さだろう。
梅雨冷めの季節、風も空気も今日はとても冷たい。
昼間降っていた雨も、日が暮れて、夜になる頃にはもう止んで、後に残ったのは冷たい風景と、長い夜。
国道沿いのコンビニ。
蛍光灯の無機質な灯りに誘われて蛾のように思わず立ち寄ってしまった。
アイドリング状態からエンジンを切ると、ざわめいていた空気の流れがパタリと止み、ヘッドライトが消え、辺りの黒い色が強調され、前が見えなくなった。
まるでその先は海か、あるいは空間が存在しないかのようだ。
一呼吸おいてバイクから降りる。足がガクガクしている。少し疲れたようだ。
エンジンがこの寒さで冷やされてチキチキと小言を垂れている。
少しの間ボーッと暗闇の中を見つめ、何か見ようとした。
そのうち無駄に時間をやり過ごすことに飽きてしまい。
店内に目を向けると、やる気のなさそうな店員があくびをしていた。
出来ればああいう人間とは関わりたくはないのだが、そんな気持ちよりもコーヒーを飲みたいという欲求の方がソレに勝った。
入ってすぐのカウンターの温蔵庫の中に缶コーヒーがあったが、すぐには缶コーヒーには行かず、店内をフラフラした。店内は不思議と静かでBGMすらかかってはいない。
ただ端の方で、切れかかった蛍光灯のジジジという耳触りな音が聞こえる。
ずっとその音に集中すると、やがてその音は大きくなり、店内を一回りする頃には気付かなくなった。商品を見てとくに手に取ることもなく、缶コーヒー以外は欲しい物はなかった。そうやって流れながれ気付くと、文具の一角に置かれたカッターナイフを手に取りじっとナイフを見ていた。
パッケージ越しのソレは鈍く光り、ぼくにはそのナイフが早くパッケージから出たくて出たくてたまらないように見えた。
何かが聞こえる、何だろう? まただ蛍光灯だ。
ジジジ、ジジジ、ジジ。
うな垂れるような、やる気のない音。
カウンターに目を向けた。
店員と目が合う。
ナイフを手にレジに向かい温蔵庫から缶コーヒーを取り出し、カウンターにナイフと一緒に置いた。
若い店員は震える手で商品を扱った。
バーコードをスキャンして、レジを打ち、くぐもった声で値段を言う。
そして、「あっ」ぼくが言った。店員は自分が何をしたのか分からないような表情で、こっちを見つめていた。その手は震え、額にじっとりと汗をかいている。
何が怖いのだろうか? パッケージに入ったナイフが怖いのだろうか、それともぼくの顔が怖いのだろうか、だとしたらぼくはどんな表情をしていたのだろうか?
そんなに怖いのだろうか?
店員の目をぼくはじっと見た。
切れかかった蛍光灯の光が写り込んで、チカチカ光っている。
ぼくがそうしている間に、店員は待っていた。次のぼくの行動を。
「あの、袋いいです」
誰かが小さく息をもらした。
コーヒーを飲みながら、店先に備え付けられた誘蛾灯を眺めていた。
店員は耳に受話器を押し付け誰かと電話をしている。
たまにバチンと音を立てて、空を這う虫を撃ち落とす、ソレの人工的で有害な強い青白い光を。視界に残像が残る。
やはりエンジンが止まっていると何だか退屈な物体に見えた。
辺りは暗く先が見通せず、何があってもおかしくないような気がして、瞼を閉じれば細波が聞こえる気がする。
キックペダルを二、三回踏み込むとエンジンはかかった。
それから少しアイドリングをさせて、ヘルメットを被る。息をするとさっき飲んだコーヒーの匂いがした。
革ジャンのジッパーを首のところまで上げると、上半身がしまり、内ポケットに入ったナイフが身体に押し付けられる。
一度店内に目を向けた。あの店員がやはり受話器を耳に押さえつけたままこっちを見ていた。
アクセルを開けて、どこか、どこへでも届くように大きく断続的に空吹かしをし、店員を見つめ返した。
それからクラッチを雑につなぎ、アクセルを思い切り開けて発進した。
夜闇の中に溶けていく。
胸の中でナイフが騒いだ。